(はてなダイアリーの記事に加筆修正して転載)
本書は、数学の定理の解説としてはきわめてまっとうな、ゲーデルの不完全性定理の解説本である。普通なら、まっとうであることは評価の最低基準であって、それだけで高評価になるものではない。しかし、不完全性定理に限ってはそうはいえない。ちまたにあふれる不完全性定理に関わる言説にはまっとうでないものがあまりにも多い。そのため、不完全性定理の解説本はまっとうであるだけで高い評価を得てしまう。
まっとうであるために第一に必要なことは、内容に初歩的な間違いがないことである。当たり前のことだが、その当たり前が実現できていない不完全性定理本は多い。肝心の「不完全」の定義を間違えているものすら珍しくない。その点、本書は正しく記述しているのみならず、ちまたによくある濫用を批判し、言葉の辞書的意味に引きずられるなと釘を刺している。
不完全性定理は数理論理学の基本定理の一つである。基本定理は、その分野の様々な定理を導くことに使われる定理である。したがって、不完全性定理を導いておしまいでは、不完全性定理のちゃんとした解説とはいえない。不完全性定理がどのように有用であるかまで解説して、やっと、不完全性定理を解説したことになる。本書には、第二不完全性定理を体系の強弱を調べるのに使うことができることの解説があり、不完全性定理の応用についてもちゃんと触れている。
ここまでは他にダメなもの多数の中で数少ないまともな本だからすばらしいという話ばかりだったので、他の数少ない良書と比べても優れている点についても語ろう。
本書では、不完全性定理そのものの解説は最後の章で一気に行われていて、その直前の章までは、かならずしも不完全性定理に直結しない数学の話題が続く構成になっている。その結果、不完全性定理が数学の定理であるという当然のことが読者に印象づけられる。これは、不完全性定理の似非哲学的な曲解へのブレーキとして機能するだろう。話題の選択は普通の解説書のスタイルで行うと不自然なものなのだが、小説なので自然に感じられるものになっている。登場人物の役割分担もうまく働いている。
良書を世に出した著者と関係者に感謝したい。
肝心の「不完全性」の定義を間違えているため、不完全性定理の入門書としては勧められない。著者は、完全性定理と不完全性定理は違うので矛盾しないと強調しているが、では、どう違うかの説明が間違っているので、世話はない。
論理を研究するには、おおざっぱに分けて二通りの手法がある(あくまで、おおざっぱな話である)。ここでは、証明論的手法とモデル論的手法と呼ぶことにしよう。
両手法に共通に出発点として、まず、式(formula)を定める作業が必要となる。多くの場合、「記号列のうちかくかくしかじかなものは式である」といった形で式を定義する。
証明論的手法では、どの式が「証明可能」であるかを定める。多くの場合は、次のような手続きを経る。ある式、または、あるパターンにマッチする式を選び、それらを「公理」と呼ぶ。いくつかの式から式を導く規則をいくつか与え、それらを「推論規則」と呼ぶ。公理は(公理自身から自明に)証明可能である。すでに証明可能であることがわかっている式から推論規則で得られる式は証明可能である。以上の手続きで証明可能であると示すことのできる式のみが、証明可能であるとする。
モデル論的手法では、式の集合の外に、意味空間などと呼ばれる構造を考える。式からある意味空間への対応で、ある条件をみたすものを解釈と呼ぶ。どのような意味空間を考えどのようなものを解釈とするかを決めることを、意味論を入れるという。同じ論理体系に対して、異なる意味論を入れることもできる。意味空間には、「真」と呼ばれる値がある。式がある解釈で「真」に対応するとき、その式はその解釈で真であるという。式がある意味論のすべての解釈で真となるとき、その式は恒真であるという。
ある論理体系とある意味論において、すべての証明可能な式が恒真であるとき、その論理体系はその意味論に対して健全であるという。すべての恒真な式が証明可能であるとき、その論理体系はその意味論に対して完全であるという。古典一階述語論理は(通常の解釈に対して)健全かつ完全であるというのが、ゲーデルの完全性定理である。これは、次のことと同値である。古典一階述語論理上の公理系について、その公理系から証明可能な式全体と、その公理系が真となるすべての解釈で真となる式全体は、一致する。ここで、公理系に、一階述語論理の言語の文(自由変数を持たない式)の集合であること以外の制限はない。
著者は、この二つの完全性を混同している。完全性定理の説明のところで、「完全性」の定義として、証明論的完全性を書いている。そして、一階述語論理はこの意味で完全であると主張している。 間違いとしてもレベルが低すぎる。「非論理的公理を持たない一階述語論理で A も ¬A も証明できない論理式 A の例をあげよ」など、初学者の練習問題にもならない簡単な問題である(たとえば、言語に無引数述語 p が含まれていれば、A≡p とおけばよい)。
著者は、また、自然数論は完全性定理が成り立つには強すぎる体系である旨の主張もしている。それも大違いである(こちらは、かなり広まっている誤解だが、どんなに広まっていようと、専門家に一言相談すれば「それは間違っている」と言ってもらえるのだから、言い訳にはならない)。 一階ペアノ算術(自然数の加減乗除と大小比較ができて数学的帰納法が自由に使えるが、関数一般や集合一般を自由に扱うことはできない世界と思って、ほぼ間違いない)は一階述語論理上の公理系なので、完全性定理が適用できる。したがって、一階ペアノ算術の公理系から証明可能な式全体と、一階ペアノ算術の公理系が真となるすべての解釈で真となる式全体は、一致する。これを、「一階ペアノ算術は、一階ペアノ算術のすべてのモデルに対して、健全かつ完全である」という。
肝心の部分がまったくの間違いであるために、すべての努力がぶちこわしになっている本である。執筆時に、専門家の助力がまったく得られなかったのだろう。今からでも協力してくれる専門家をみつけて、全面的に改稿することを、版元と著者にお勧めしたい。
(黒木のなんでも掲示板への投稿を加筆修正して転載)
この本の第一章「数学基礎論」は「パラドックス史観」に基づく解説になっていて、古臭いのでお勧めできない。
「パラドックス史観」は私の造語で、数理論理学の歴史をパラドックスとの闘いとして語るもののことである。嘘とは言えないが、一面的すぎる。この本もそうだが、「パラドックス史観」一辺倒の解説の困ったところの一つは、ゲーデルの不完全性定理をヒルベルトプログラムを否定したものとしてのみ評価し、否定的な結果とみなすことだ。そんなことはない。不完全性定理は数理論理学の基本定理の一つである。基本定理というのは、それを出発点にして豊かな結果が得られるから基本定理だ。実際、不完全性定理を利用して、さまざまな定理が証明されている。
たとえば、この本でも紹介されている、ゲンツェンの発見した
PA+ε0帰納法 ⊢ Con(PA)がある。これと第二不完全性定理から、PAが無矛盾ならPAでε0帰納法が証明できないことがただちに導かれる。PAと PA+ε0帰納法 の違いを明確にする肯定的な結果である。ところが、「パラドックス史観」では、そういったテクニカルな議論が無視され、PAより強い体系でPAの無矛盾性を証明することの意義のやや哲学的な議論に終始してしまう。この本も例外ではない。
では、テクニカルな部分のみ拾って読めばだいじょうぶかというと、帰納的関数論のところは、テクニカルにもあやしい。「Well-defined」と題された節で3ページ弱も使って説明しているが、そこで「well-defined」と呼んでいるものは、実は、「effectively defined」のことだ。well-defined だが effectively defined でないものが存在する事実が計算可能性を考える出発点の一つなので、この混同は大きな瑕疵である。
集合や帰納的関数について知りたい方には、もっとテクニカルでドライな入門書をお勧めする。数学の歴史や哲学に興味のある方には、その専門の文献にあたることをお勧めする。この本が書かれた当時の数学史観の資料として必要な方以外には、この本の第一章はお勧めできない。